森重流砲術研究会(東京都)

fck20090119101525b22e627a1499289b 森重流砲術の元祖、沼靱負都由(かげゆうくによし)は、幼くして三田尻の村上蔵人に村上水軍学を学び、十八才の時に諸国を遊歴して砲術の奥義を極めました。寛政七年(四十才)の時に「合武三嶋舟戦要法」を著述して、「毛利の茂る」の故事から森重姓を名乗りました。若年寄京極周防守は、元祖の死去に際して森重姓の名声を高く評価して、十才の嫡男都光に森重氏への改名を命じました。都光は森重の姓名を流名を賜りましたが、技法は中島流であった事に悩み、二十二才の時に官職を辞して武者修行に旅立ちました。四十余才に至り優雅で芸術的な新しい砲形を創作して、独自の森重流砲術を完成して開基者と成りました。 都光は父の形を「前手前」の二箇条形として残し、基本形を七箇条に集約して「衆発操替」の団体訓練を可能にしました。初段から五段の「習業形」を基礎訓練形を、自在に銃を扱い慣れる為にして、急放し技法から短筒に至る頬付銃を「二十三ヶ條」の技系を表形と纏めました。大筒・棒火矢筒や受流形を「十ヶ条」を裏形とし、切紙・目録や皆伝の多彩な砲形と薬法を伝え、近代的な銃陳法の軍事訓練を完成しました。 会長七代森重民造の死去により名誉顧問川越重昌先生は、新たなる会の発展の為にご尽力を賜り、昭和開基者・安齋実会長より「正しく伝える様に」との御言葉を頂き、森重流砲術研究会の継承を正式に承認されました。当会は失われた砲術技を探求して、武術としての個展砲技の探求に努めています。

種子島新生社印刷社 全国火縄銃カレンダーより許可を頂き転載しています

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